平和池水害70年を迎えて 《特別寄稿》

平和池水害伝承の会 中尾 祐蔵

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 豪雨と農業用ダム決壊で篠町柏原を全滅させた平和池水害が今夏、発生から70年の節目を迎えました。水害の日「7月11日」朝、年谷川右岸にある水害慰霊塔で柏原区と遺族会による70周年の法要が営まれ、復興したふるさと柏原のいまを犠牲者の御霊に報告。午後からは、公民館での防災講演で75人の命を奪った水害を振り返り、その教訓を地域で共有することができました。コロナ禍の水害70年となりましたが、行政や自治会、メディアから平和池水害への大きな反響をいただき、地域で取り組んできた平和池水害の伝承活動を振り返える機会になりました。
 平和池水害は、戦後復興期の1951(昭和26)年7月11日に当時の南桑田郡亀岡町と篠村字柏原の境界を流れる年谷川流域で発生。上矢田など現亀岡市域での犠牲者は98人にのぼりましたが、このうち柏原は死者・不明75人、集落半数の40戸流失。「カセバラが流れた」が災害第一報といわれたほどの集落全滅でしたが、じつは、平和池水害といっても最近まで「語られない災害」「語らない災害」だったといっても過言ではありません。
 封印されたような大災害となったのは、2年前に完成したばかりの防水灌がいため池「平和池ダム」(農林省の計画、亀岡町が誘致)の決壊が暗い影を投げかけています。災害を記録した行政の資料も身近には見当たらず、平和池水害の全容がわからないまま、その後の風化もあり、地元でも集落がどのように全滅したのか、住民の行動など「その日」の詳しい様子が分からず、語り継げなくなっていました。

 「このままでは、75人が犠牲になった柏原で水害のことが何も語り継げない」と、水害から50年(2001年)を機に地域で災害記録づくりに乗り出し、2002年区に特別委員会を設置。地元の古老らから聞き取りを始め、写真や設計図、裁判資料などの収集、現地調査を経て、2009年に平和池水害を語り継ぐ「柏原75人の鎮魂歌」を区で自費出版しました。
 この水害記録集で、「ふるさと柏原がどのように壊滅的な被害を蒙ったのか」「住民はどのように行動し、生死を分けたのか」「救援救護、復興などの道のり」「平和池ダム決壊の原因調査」などを取り上げることができました。水害50年後に始めた記録づくりですが、ドキュメンタリーとして柏原の平和池水害を見える形にすることで、多くの人に戦後復興期の大規模ダム災害を伝えられるようになりました。
 出版は、ちょうど水害60年の2011年(東日本大震災)直前でしたが、記録出版で終わりではなく、広く語り継ぐことが大事だ―と、本格的に災害の伝承がスタート。地元小中学生の防災授業や行政、自治会での防災講演、防災展で平和池水害の歴史や災害から命を守る大切さを訴え、現在も続けています。今年も詳徳小4年生が7月15日に公民館で防災倉庫やパネル展示、防災倉庫を見学。年谷川右岸の慰霊塔や鎮魂の碑にも立ち寄り、災害現場の跡を確かめました。同小は、水害の紙芝居を4年生が手作りし、後輩たちも水害の寸劇を考えるなど災害の伝承を実践、平和池水害から学ぶ教訓を伝えてくれています。次代を担う子どもたちは、平和池水害の歴史を知り、自分たちもこの水害のこと、命を守る防災の大事さをみんなに伝えたいと感想文に書いてくれました。過去の災害を知り、そこから学ぶ教訓は確実に子どもたちに伝わっていると、感じています。
 こうして多くのみなさんに語り継げるようになったのは、出版後のここ10年です。「水害のことが知りたい」と20年前に始めた災害記録づくりが平和池水害を「語られない災害」「語らない災害」から「後世に伝えなければならない災害」に大きく方向転換させたのではないかと感じています。2011年、亀岡市が平和池ダム跡周辺に「平和池災害モニュメント」を設置。碑文に「亀岡市にとって決して忘れてはならない災害であり、その惨事と教訓を後世に引き継ぐことこそ、いまを生きる私たちに課せられた大切な使命です」と書きこみました。

 そして、水害70年の今年、篠町自治会が企画した区長参加の防災ウオークで柏原の平和池水害関連現場を確かめ、亀岡市広報「キラリ亀岡」も平和池水害の伝承活動を6月号で紹介。亀岡市文化資料館は、平和池決壊70年で7月10日から「丹波の天変地異」展を開催。京都新聞は「平和池水害70年」を特集。平和池ダム跡をドローンで空撮、7月20日から3回連載した特集で「被災住民の証言」「平和池ダム」「未来につなぐ災害伝承」を取り上げました。まだまだ、災害伝承の課題は多いですが、今年の水害70年でこのように多くのみなさんに平和池水害の歴史に関心を持ってもらえたことに感謝し、その教訓がひろく防災にいかされるよう願っています。